特別公開|井川直子さんの連載 ❺

出し惜しみせずためらわないひと声が、
人の垣根を越えていく。

こういうとき、「魚竹」のお母さんたちならどうするだろう? と思うことが度々ある。たとえば、昼の蕎麦屋で熱々のだし巻き玉子が現れ、日本酒を追加したら「さっきでラストオーダーです」と言われたとき。居酒屋で、ぱりっと揚がった海老天のしっぽを2尾、〆ビール(最後はビールに戻る)用に取っておいた、その皿を一瞬の隙に下げられたとき。

つまり「ひと声かけてよ」っていうときで、東京暮らしを始めたばかりの頃などは、こういう場面にいちいち戸惑っていた。私が育った秋田は、市場で枝豆を手に取れば、知らないおばさんが「それうめがったっけよ(それおいしかったわよ)」とするっとフェード・インしてくる。我が故郷では、良くも悪くも人との垣根が限りなく低かったから。
10代の頃は「悪くも」しか見えないまま上京したけれど、知らない者同士の街では、お互いにひと声を出し惜しみするのが癖になっているように思えた。すると垣根はいつの間にか高く、強固に、積まれていく。

話は戻り、蕎麦屋で私は思ったのだ。きっと「魚竹」ならだし巻き玉子を見れば合点し、「お酒の追加、大丈夫?」とか何かあっただろうと。
兄弟二人とそれぞれの妻を中心に営む、昼は定食、夜は季節料理の店である。夜は静かに、日本酒と魚のぬたあたりでちびりちびりと、しみじみと。対して昼は健康的。ガス釜でふっくらと炊かれたごはん、炭火でじわじわ焼いた分厚い魚という、真正直な定食だ。

お母さん二人の出番はこのお昼。もしも重そうな荷物を持って入れば、「こっちに置きましょうか」とこちらが迷う前に声が飛んでくる。女性客には少なめに盛って「足りなかったら言ってくださいね」をくっつける。私の友人などは、焼き魚を一口残してごはんを食べ切ってしまい、お代わりするには微妙だ......と考え込んでいるところへ「ごはん一口だけよそいますか?」が不意にきて、頭の中が見えている! と驚いたそうだ。

彼女たちは人の心の小さな動きを察して、すくい上げるひと声をかける。そう伝えたら、「下町ですから、ひと言、言っちゃうわね」なんて二人はからりと笑った。長男で二代目・早川一男さんの妻・佳子さんと、次男・清忠さんの妻・清美さんは、根岸と月島育ちの、ともに江戸っ子。東京でも、ローカルは秋田と垣根の低さが同じくらいかもしれない。

 

 

 

「魚竹」は築地にある。昭和29年、兄弟の父、早川竹次郎さんが新富町の料亭へ魚を卸す商売から始め、当時の屋号は「早川」。高級鮮魚を扱い、その魚を炭火焼きにして仕出しもしたが、昭和51年、花柳界の衰退によって商売替え。飲食店を始め、魚屋の竹次郎で「魚竹」と改めた。

だから「魚竹」といえば、魚の目利きも扱いにも間違いがない。なかでも鮪。中落ちにお醤油をちょんとつけて頬張れば、ふわりとした舌触り。夜のねぎま鍋は、鮪のハラスと葱を、鰹出汁と塩で味わう江戸の潔さ。質のいい鮪の脂の旨味というものが沁みて、くー、と唸ってしまう。

竹次郎さんは74歳で他界したが、男所帯の店で紅一点、割烹着姿で切り盛りしていたのが妻のふじさんだ。90歳まで店に立ち、看板おばあちゃんとして慕われていた、と一男さんが教えてくれた。
「おにぎりを握れば固すぎずやわすぎず、玉子焼きを焼けばふんわりと。今、それは私の仕事ですが、なぜか同じようにはできないんですよ」

大正元年生まれのふじさんは、物静かだがしゃきっとした性格で、それはそれは気働きの利く人だったらしい。口癖は「お客さんを大事に」。彼女の働く姿から、息子やそのお嫁さんたちは為すべきことを受け取った。

 

 

お昼の定食では、常連は決まってお味噌汁をお代わりする。二杯目の具が替わるからだ。たとえば最初がなめこなら、次は油揚げと刻み葱。お椀も新しいものに替わっていて、初めて気づいたときはちょっと感動した。

20年近く前、せっかくならと具を替えてみたら喜ばれたのだそうだ。「魚竹」にしてみれば、そんな大声で言うほどでもない些細なこと。だけど「いつでも温かいものを」と火にかけておくお味噌汁は、煮詰まらないよう薄めに作った汁を足している。「具が煮えてくたくたじゃ、がっかりだから」と具と汁は別々に作り、お椀で合わせる。そういう些細なところまでちゃんとした仕事によって、私たちは「大事に」されている。

遅いお昼を食べ終えると、もう閉店時間ぎりぎりだった。いけない、早く出なきゃと焦りつつ、最後のお茶が香ばしくてつい「おいしいなぁ」と呟いた。するとやっぱり、ためらいのない声が朗らかに響いてくるのだ。
「お茶、もう一杯召し上がる?」

『d LONG LIFE DESIGN』No.4(2020年8月・D&DEPARTMENT PROJECT刊)より、転載

 
井川 直子|文筆家
食と酒にまつわるひとと時代をテーマに執筆。著書に『ピッツァ職人』『昭和の店に惹かれる理由』(ともにミシマ社)、『東京の美しい洋食屋』(エクスナレッジ)ほか。
>> www.naokoikawa.com

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