昭和の時代の音楽を聴いたとき、あれ、テンポ間違ってない?とまさに拍子抜けするくらい、ゆっくりと感じたことがある。けれどそのテンポに身を預けているうちに、それは砂浜の波のようにすうっと体に吸い込まれ、気がつけば泣きたいくらいほっとしていた。
テンポは時代のスピード感や、人が生きる速度を映すのだろうか。たとえば携帯電話の時代がきて、すぐつながることが不文律になった。スマホ時代になると、どこまでもPDF添付のメールが追いかけてくる。いま、食事中でさえそれらを手放せない時代の速度に、私たちは意識の下で急かされ、追い立てられていたのかもしれない。
「つながる」と「待つ」がセットであった固定電話時代の音楽は、スローだ。そしてそれが人をほっとさせるのは、急がないテンポや間合いに、余白を感じるからじゃないのかな、と思う。
人を休ませ、人が息をつけるところは、いつだって余白にある。それはお店も同じことで、長くつづく店の店主たちを取材していると、たびたび「お客さんを圧迫しないように」という言葉を聞く。圧迫とは、威圧感とまではいかないけれど、人をどこか追い詰めてしまうような空気感のこと。それを避けたいと考える彼らは、どこかにそっと余白をつくる。余白とはつまり、やさしさだ。
そんなことを、東京・神田淡路町「近江屋洋菓子店」の喫茶でアップルパイを食べながら考えている。ケーキと焼菓子とパン、アイスクリームなどを売り、店の奥にはイートインの喫茶がある。という構成要素にしては、高過ぎるほど高い天井、あるまじき広々とした空間使いの老舗洋菓子店である。明治17年創業だから、今年で135周年。当時は炭屋だったが、初代が「パン」という新しい食べものに目をつけて「近江屋麺麭店」となり、「近江屋洋菓子店」となったのは3代目・吉田増蔵(ますぞう)さんの時代。戦後、進駐軍の払い下げで製菓用機器を揃え、洋菓子を看板に掲げた。現在のビルは昭和41年に建て替えた、なんと増蔵さん本人の設計である。
高い天井、カウンターはこの長さで8席の余裕。ほかに丸テーブル16席の喫茶がある。天井の独特の青色は、「近江屋洋菓子店」の在り方を象徴するような抑えた色味。
高い広いというだけでなく、この空間は、店の質感を伝えている。天井の高さは建物の剛健を物語り、床の広さには大理石の美しいモザイク模様が映え、壁はチェリーウッドのトラディショナルな風合い。木目風などのない、木は木、石は石があたりまえの時代にしても贅沢な素材である。好ましいのは、贅沢なのに、「近江屋洋菓子店」にはすこしもはしゃいだところがない、ということだ。天井の深い青も、絵画のひとつもない壁も、ステンレスのトレイに律儀に並んだパンもむしろ、抑えている感じ。素材は上等、だから素材以上を飾らない。「近江屋洋菓子店」の余白はこの抑制にあり、それは洋菓子やパンの味にも通じている。
「うちはほんとうに難しいことはしていません。その代わり素材はいい。それだけです」
4代目の吉田太郎さんの言葉である。
果物を使った洋菓子やフルーツポンチがとりわけ人気の店だが、肝心の果物は毎朝6時半、当主自らトラックを駆って大田市場で仕入れている。リンゴの軸は太いか、葡萄の実はハリがあるか?そうして目利きするのはもちろんのこと、初物の動きも、全体の質の良し悪しも、出回る量などの情報もすぐわかる。仲買人と毎日顔を合わせることで、教えてもらえることもある。
欲しいのは「値段以上の質」を持つ果物。それは電話注文など簡単な方法では手に入らない。
ふっくらとした苺や、甘味と酸味のバランスがとれた柑橘、みずみずしい葡萄といった上質な果物を、惜しげもなくゴロンゴロン使った洋菓子。果物は切りたて、クリームはホイップしたて、パイは焼きたて。工房はお店の上階にあるから、作りたてがすぐお店に並ぶ。
入社何十年という職人やパートさんたちが手作業で作るそれらは、どれもが素っ気ないほどシンプルなフォルム。けれど、素材がよくて作りたて、それ以上に何が必要だろう?
アップルパイをかじると、煮たリンゴが甘過ぎず、潰れ過ぎず、果肉の食感が残る絶妙の加減。パイ生地はバターの香りがふわふわ漂い、思いのほか軽い。サクサク、しっとり、ぺろり。で、もう1個お代わりしたくなる(してしまった)。じつはカルピスバターを使っていながら、432円。2個食べたいと思って食べられるハードルの低さである。
喫茶は、おかわり自由のドリンクバー(自家製スープ、生フルーツジュース3種類、コーヒーほかで648円)を注文すればイートインで利用可。カップのイラストも可愛い。
「近江屋洋菓子店」の洋菓子も、パンも、日常のものなのだ。日々買える値段の上等。この地点へ持って行くために、彼らは余剰を削る。たとえば喫茶はセルフサービス、コップも皿も紙製。市場で目利きした果物は、ケーキに、フルーツポンチに、熟したのはジュースにと無駄なく使い切る。大きくカットしたさまざまな果物が詰められたフルーツポンチは、だからその日によって果物が違うし、季節によってもさらに違う。
素っ気ないほどシンプルなフォルムと先に書いたが、なのに洋菓子もパンも、手を伸ばさずにいられないほどおいしそうだ。素材そのものがおいしいオーラを出しているからか、はたまた、大きくゴロンのわかりやすさのせいか。ともかく、人の視覚の味覚に真っ直ぐ飛び込んでくる。
「近江屋洋菓子店」の洋菓子は、詰め込み過ぎないし、がんばり過ぎない。だから食べるほうもがんばらなくていい。ただ、ほっとすればいい。
『d news 0号』(2019年5月・D&DEPARTMENT PROJECT刊)より、転載
井川 直子|文筆家
食と酒にまつわるひとと時代をテーマに執筆。著書に『昭和の店に惹かれる理由』(ミシマ社)ほか。『dancyu』など雑誌・新聞でも連載中。『東京の美しい洋食屋』(エクスナレッジ)を出版予定。 >> www.naokoikawa.com
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