50 民藝夏合宿


まず、告白しなくてはならないことがあります。僕はずっと民藝を誤解、誤認してきました。それが今回、勇気を振り絞って参加した「日本民藝夏期学校」で明らかになりました。
民藝についてはD&DEPARTMENTを作った2000年にはほとんど知りませんでしたが、「よく似ている」と言われるたびに、「民藝って何なの?」と意識することになっていき、2012年に発刊した「d design travel 東京」号の取材をきっかけに出会うわけです。かなり最近の出来事なのでした。

デザイナーですから、民藝=柳宗理。特にカーサブルータスなんかによる特集で、多くの最近の人は、柳宗理を見ながら「民藝」を探っていったのではないでしょうか。かくいう僕もそうでした。そして、柳宗理のやかんやステンレスボールから、「手仕事」と「量産品」にも意識が行き、ある一大ブームの時を経て、「民藝=デザイン」の運動だと勘違いした人は多いと思います。
夏期学校は写真に載せたような3日間の合宿。どんな人たちが参加していたかというと、下は17歳から上は80歳まで、40人の参加平均年齢はおそらく60歳くらい。僕が54歳。毎年全国のどこかで行われる「夏期学校」に(ちなみに昨年は鹿児島だったようです)、毎年参加し、地域文化観光を楽しむように巡るリタイヤした老夫婦が多くいました。もう一つ特徴的だったこと。それは50歳前後の女性が多いこと。おそらく現役地域編集、観光業などで働いているような、オシャレで自立し、興味がはっきりしている方々でした。男女比はおよそ半々。僕と同じような年齢の男性はそういえば、ほぼ、いませんでしたね。
さて、「民藝」の話に戻ります。僕は2日目に行われた松井健さんによる講演の中で「試しに民藝をものの形から見てみると・・・」というフレーズから始まった話に、愕然としました。僕の(多分、これを読んでいるあなたも)中では「民藝=かたち(デザイン)のこと」だと思っていたからです。結論から言うと「民藝」とは「宗教的な美しさの探求」です。わかりやすく極端に言うと、「民藝」とは「宗教」だったわけです。「美」とは何かを追求していった結果、「宗教」にたどり着いた。そこから「宗教」を探っていった結果、浄土真宗に行き着く。みたいな・・・・・。(ざっくりと書いています) 全国にある民藝館が瓦屋根のお寺のような様相であることは、当然、ここから来ている。柳宗悦が天国ほ行く最後に残した「美之法門」という本も、仏教環境の中、お寺の中で書いている。

いろんな場所で「美」について探求していくうちに、不意にあった生活雑器に出会う。お皿や茶碗なんかでしょうね。それを見た柳が(宗理ではありませんよ)、「美しい」と感動する。そして同時に、こんなに普通に誰が作ったかわからない、誰かに見せてやろうとか、自慢するため、価値をひけらかすためじゃない生まれ方をした「形」の美しさって、どうして生まれるのか、何なのだろう・・・・・。


これが近年、私たちが印象に持っている「柳宗理」による、「カーサブルータス」による(笑)、「民藝」の印象に近づく一歩手前という感じでしょうね。何度も書きますが、「民藝運動」の最初は「美の探求」から「宗教的な美」をへて、この偶然の「生活雑器にある美」と出会い、結果、若い人を中心に「民藝とは用の美」(機能を追求していった結果の形の美しさ)とか認識されていくわけです。もちろん「そんなこと、知ってるよ」と言う方もいるでしょう。しかし、僕は勘違いしていました。なので半年前くらいに書いた「美術手帖 民藝の未来」に寄稿した原稿は間違ってはいないのですが、根底の話を誤認したまま、最近の「民藝」の様子だけで書いています。これは大変ショックです。もちろん、「宗教的な気配」は感じていました。しかし、例えば新潮社の本「工芸青花」に「スペインのロマネスク」とかフランス画家「ロベール・クートラス」なんかが出てくることの「アンティーク臭い」感じがとても嫌で、いつも飛ばして読んでいました。そうだったんですねー、という感じです。今。

僕は今、恥も立場も考えず、自分の誤認をひたすらに書いています。それはこの夏期学校を通じて、「民藝」の本質を知り、それがものすごく「ロングライフデザイン」に似た何かを持っていると確信したからです。
その理由を書くには、とても勉強が足りていませんので、これから頑張りますが、簡単に書くと「長く続いているデザインには、形以外の理由がある」というロングライフデザインへの僕の(D&DEPARTMENTの)思いと「本当に美しいものは、宗教的な美に似ている」とする「民藝」の考え。「宗教的」を「時間」と重ね、「美」と「本当にいいデザイン」が重なるんじゃないかという思いです。

ロングセラーなものは、例えば、「営業の人」や「購入者」の思いが「ファン」となっていきます。これは大げさに書くと「宗教的」とも言えます。また、こんな強引に「ロングライフデザイン」と「民藝」を結びつけようと思う考えの根底には「民藝運動」の幾つかの問題点としての「継続的採算性」があります。
これは「ロングライフデザイン」の世界でも一緒です。定番品を販売し続けるのは本当に難しい。「本当に美しいもの」を「美しい」だけて商売するのは、とても困難なことで、僕は「民藝運動」らしい「ビジネススタイル」にとても関心があって、それはもしかしたら「D&DEPARTMENT」でやってきたことの中にヒントがあるかもしれないと思いましとた。つまり、言葉を選ばずに書くと「今の民藝運動はスタイル的に昔のままで古い」とも言えます。これを「それが民藝っぽくていい」と守りに入っている教会会員が多いのでしょう。そうこうして「民藝」とは「民芸調」のように誤認され、今に定着してしまったとも言えます。

富山県は「民藝発祥の地」と言われています。疎開中の棟方志功を心配し、柳宗悦らが彼を訪ねたり、そもそも大空襲で焼け野原になった富山の復興を「民藝で」という動きもあります。
夏期学校は転々と場所を変えて毎年、行われていますが、ある参加者の60代女性がこう言いました「これまでの学校と全く違って難しかったわ」と。それは当然かもしれません。なんといっても発祥の地。そう言わしめるだけの場所、作品数、美術館、そして、実際に柳らが生活した痕跡が「福光」や「城端」などにリアルに街全体に残っている場所なのですから。教材としては申し分ありませんし、他の土地にない環境でした。

僕はこれからの「ロングライフデザイン」のことを考え、一度、民藝協会に参加してみようと思い、暮らしのベースがある東京の会に参加することも考えたのですが、あえて、この富山の「となみ民藝協会」に参加することに決めました。正直、東京で「民藝」を学ぶということがピンとこなかったのと、駒場にある日本民藝館の何倍もの資料が富山の「福光」や「城端」に、しかも活動家たちの痕跡としてもある。そして、この土地で「となみ民藝協会」をする太田浩史さんの熱い思いを知ってしまったということも大きいのでした。


これからのものづくりは「マスメディア」による作られた憧れや、トレンドを意識した消費型の短命なものより、ますます経年変化が楽しめたり、代々受け継いでいく喜び、深みのあるものを「生み出したい」という意識が高くなっていくでしょう。そんな時、「美しい」というキーワードがますます探求されていくと思うのです。

柳宗悦は「美しい」ものはそれを見る「直感」が必要だと言っています。私たちはものを見る時、自分の眼とものの間に数え切れないほどのフィルターを置いています。例えば「情報」「価格」もそうでしょう「自分の部屋に似合うか」とか「妻がなんというか」とか・・・・・笑 そうした雑念を一切払ってみる。それが「直感」で、そんなことは普通はできないわけですが、彼らはそれを心がけてきた。
柳宗悦はこの「直感」は生まれ持ったもので、そもそもそれがない人は、いくら何をしても「美しさ」を見ることができないとされた説について、弟子のように暮らしていた漆工芸作家の鈴木繁男さんに毎日試すことをしていたそうです。鈴木さんはのちに「この毎日の苦行でノイローゼになった」と言っていたと聞きましたが、毎日いろんなところから届く器や掛け軸などを箱から開けさせ、「これをどう思う」「これはどうだ」「何か思ったことを言え」「早く言え」と問答を繰り返したそうです。

考えてみましょう。いきなり何も情報を知らない焼き物の壺を目の前に差し出され「何か言いなさい」と言われても、なかなか言葉が浮かばないはずです。まして「美しい」「きれいです」なんて言ったら、「どう美しいか」と聞かれるでしょう。
鈴木さんはこの体験を経て、当時の柳宗悦のことを「”美しい”以外のことばで、美しさを”ことば”で表せる人」と言ったようです。

「美しい」ものを作るには「美しい」ものを作る文化が必要だと民藝では語られていました。「美しい」ものを探求していくと、おのずと「昔のもの」になっていったようです。では、昔のものとはどういう意味なのか。昔と今は何が違うのか。一つに「宗教」があったと言います。様々な「宗教」が生まれ。信仰されていく中で、健やかに信仰が深まり、その土地が成長していく背景から、「美しいもの」は生まれやすいということだそうです。そう聞いていくと、今という世の中は、いろんな雑念や多様性と言われる様々があり、心休まらず、結果「本当に美しいもの」を産みにくい、生めない時代と言えるかもしれませんね。

「美しい」ものを見て「美しい」ということば以外でそれを語るには、「神」に近いことばでは言い表せない世界に行ってしまうでしょう。ことばでは表せられない美しさ。なんとも言えない美味しさ、訳も分からず涙が出てしまう感動・・・・。ここにはそれに向き合う雑念がない状態。すなわち「直感」で向き合えたと言えます。
すべても欲を捨てないと見えてこない・・・・・なんて世界って、やはり「宗教」でしょう。

民藝は100年前には存在しませんでした。その「宗教的な美しさ」の様々に気づいた人。それが柳宗悦であるようです。
「民藝」とは「柳宗悦が美しいと思った気持ちを理解する」ということのようです。「民藝」とは「形」の話ではなさそうです。「美しいものを見る見方」のこと。「美しいものを生み出すための心の有り様」のこと。そんなことを教えてもらった3日間でした。

合宿を終えて、僕はぎっくり腰になり、富山から東京へ戻れなくなり、途中の名古屋のホテルの部屋を借り、体調と相談しながらやっと今日(この配信の前日)、東京に戻ってきました。
それは思い返すと、ものすごい集中力と土地の力からくる精神的心地いい疲労のように思います。そして、デザイナーとして「もの」と向き合うときの「本当の向き合い方」と出会えたようにも思います。
なぜ、「民藝」はこんなにもみんなを引きつけるのか。その理由もわかったような気がしています。それは「デザイン」の話ではなかった。それは「美しい」ものやことについての思想でした。それを生み出すためのあらゆることの話でした。そうして生まれたようなものを「民藝」と呼んでいたわけでした。


となみ民藝協会会長でもある太田浩史さん。以前、お会いした際聞いた質問の答えを最近出版した「つづくをつくる」の巻末にこう残しました。「民藝的なものと、そうではないものの違いは何ですか?」という問いに
「やはり、手仕事に宿る傾向があります。そういうものじゃないですかね」と。
僕は迷い、消化しきれないまま、まるで後々にはっきりわかる日のために記録するようにここに残しました。それが今、合宿を通じて、わかってきました。

柳宗理がなぜ、ステンレスボウルのような工業的量産品を「民藝」的に位置づけ、日本民藝館の売店でも販売したのか。彼は量産品も「民藝」的な美で作ることができるかもしれないということに、挑んだのでしょう。太田浩史さんの「手仕事に宿る傾向がある」というものを、量産品で実現させようとした。それは大いなるチャレンジであったでしょうし、協会からはブーイングも出たでしょう。「あんな工業製品は民藝ではない」と。しかし、彼は「民藝運動とは、本当の美を追求するその時代その時代の最先端なデザイン運動」と発展させようとした。そして、多くの私たち生活者は、そのなんとも言い難いステンレスのやかんやボウルを購入し、大ヒットした。柳宗理により「民藝」はブームとなって、柳デザインは売れに売れた。けれど、もしかしたらそれをみんなは「美しい」と思ったのかもしれませんね。
ね、ちょっと「民藝」誤解してませんでした? そして、ちょっと面白くなってきたとも、思っています。