123:建築家って・・・

d news aguiの第二期改装をすることにしました。詳しくは「note」で読んで欲しいのですが、要するに、建物が持つ物語を残しすぎて、例えば、その床につまずいたり、靴を脱いで上がってもらえなかったり、隙間風が容赦なく入ってきたり・・・・・。そこを判断した僕の眼は、言って見れば「建築家」的だったと思うのです。建築家と話していると、いつも思うことがあります。「リアルな日常が吹っ飛んでいる」のです。吹っ切れたアイディアじゃないと、普通です。普通だと誰も注目されません。メディアにも取り上げられない。でも、いい建築家は、それでも「究極の普通」を作り、個性が少しあるけれど、とても使いやすい、なんてことを考えます。素朴だけれど、使いやすくあたたかい。

これは僕の住む「グラフィックデザイン業界」にも似ています。”僕の住む”と、表現しましたが、第一線のデザイナーは、僕が同じフィールドに住んでいるなんてサラサラ思ってもいないでしょう。僕から見た彼らは、とても狂っています。メディアがあって成立している。そこに価値を置くクライアントが彼らみたいな人たちに頼む。法外なデザイン料を払って・・・・・。

d news aguiの第二期工事の中に「土壁を隠す」というものがあります。それを友人の建築家にいうと「え?信じられない。どうして隠すの」と来る。古い機織り工場跡の建築を使っているd news。その物語は天井の壮大な梁で十分。そこに土壁だ、土間だ、と言い始める。建築の個性はなるべく残したいのだろうか、僕はちっともそんなことは思えない。「残す」のではなく「使う」のだから、最低限度は残しますが、そこに依存したくはないし、よく見る「懐かしい」感じにもしたくない。

その建物の中で今という時代を生きている生活者を相手に、やらなくてはいけないことがある。建築家の建築はいつもそれを邪魔している、と、僕は思うのです。

安藤忠雄の建てた家に住んだことがあります。約1年ですが、住めませんでした。冬は冷え切ったコンクリート。ほとんどの直射日光を取り入れない窓の位置。おそらく、そうやらないと、奇抜なというか、シックで普通を装いながら「どこか違う」ものにならないのでしょう。「ここになぜ、窓がない」という思いをずっとしました。しかし「ここは安藤忠雄の住宅だ」と言い聞かせるように住んでいました。もちろん、知人が遊びにきて、キャーキャー言っている時は「まあね」という感じで、「でも、住みにくいよ」とか言いつつ・・・・。本当に日常がないのです。

d news aguiにある土壁を新しい壁で塞ごうと思っています。それについて「なぜ??」と、建築家の友人。言いたいことは本当にわかる。僕もそうだったから。でも、どこかのタイミングで「業界やメディアの眼を気にしなくなった」時があり、その時、これまで自分はどこを向いてデザインをしてきたのだろう、と、猛烈に反省したのでした。古い建物を残すなら、ほんの一部に。そうしないと住めません。もちろん、快適な居住性はいらない、といういっときだけの滞在の観光用みたいな建築なら、存分に残せばいいと思います。そのさじ加減を多くの建築家は知らないと、感じました。もちろん、快適でずっと住んでいたい建築を望む普通の人間に僕がなったから感じていることだと思います。